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内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。

想い

2018.1.13 Sat

NHKの『あさイチ』に小澤征爾さんがゲストとして出演なさっていた。
度々の大変なご病気から生還なさってこの精悍さは! と、眼光の鋭さに磨きがかかったようだった。それでも何かというと涙ぐんでいるのは、やはりお年を召したせいだろうか。
地方の子どもから音楽界の若手演奏家の指導に力を入れている姿と、指導の仕方を見て、うーんと唸り膝をたたいてしまった。
楽譜には「ここを強く」だの「優しく」だのと注釈はあるけれど、作曲家の本当の想いそのものは『楽譜』には表せない。だから演奏者や指揮者はそこを読み取らなくてはいけないのだと。
同じ作品でも指揮者によって感動の度合いが違ってくるのは、楽譜には表せない想いの読み取り方の違いなのだなと思った。
日本人は真面目で大人しいから、楽譜を譜面通りに演奏しがちだ……と聞いて、そうか、私は♪を♪にしか受け取らずに、その裏側にある『想い』に気がつかなかった。
それで私が弾くピアノを(チェルニーやソナチネレベルでそれも独学だったけれど)、ただの雑音だと夫は笑っていたのだな。
それは小説にも言えることだと思う。
作者は想いを込めて創作しているけれど、活字(台詞や文章)でしかない。だから読者は台詞や文章の行間から作者の想いを読み取ることにより、感動がより一層深まるのだと思う。
これは身贔屓と自慢になってしまうけど、犯人がわかっていても携帯電話のない古い時代でも、『内田康夫』の作品が世代を越えて読み継がれているのは、コンダクターと言う名の読者の読み取りが優れているからだと思う。
知り合いの人が「○○(作品名)は今、3回目の読み直しですけど、読むたびに新しい発見があるのです……」と言っていた。
そういえば映画だってテレビドラマだってそうだ。
台本には台詞しかない。台詞の裏側にはその本人の心や想いがあるはずだ。だからタレントや俳優は台詞をしゃべるのではなく、役を演じるのではなく、役の本人そのものにならないと役の人物を表現することはできないし、作品そのものも大したものにはならないのかな? 
それはコンダクターである演出家の責任でもあるかもしれないと、『あさイチ』の小澤征爾さんの姿をみていて、生意気にもそう思ってしまった。

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2018.1.10 Wed まァびっくり!