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内田康夫 夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。

無=ゼロ?

2018.12.26 Wed

私はずっと、『死』というものは『無』になることだと思っていた。『無』は『ゼロ』。
死んでしまったら骨は残るかもしれないけれど、本人は全くの無……ゼロになってしまう……と。
あの世とかこの世とかいうけれど、それは生きている者の夢であり希望であり願いであって、でも死んでしまったら『無=ゼロ』なのだと。全くの無なのだと。
そう思いながらも『無=ゼロ』、何もないということは何もないのだということがどんなことなのか、いくら考えても答えは出せないでいた(バカなことばかり言っている私だって、たまには哲学的なことを考えることがあるのだ)。
何も無い全くのゼロということはどういうことなのか。
私ン家は○○宗だ、我が家は○○教だとか言っているけど、♪ 千の風になって ♪が流行ったということは、心のどこかでそこには『なにもない』という思いがちょっとあるのかも。
この3月に夫は亡くなった。遺骨はまだ私のそばにある。墓石の下のあんな寂しく冷たいところに独りでいるなんて、寂しがりやの彼は耐えられないだろう。それで私が死んだときに、私の骨と混ぜこぜにして納骨をしてもらうことにしてある。そしてペンダントの中に彼の遺骨を入れて、どこに行くにも彼と一緒よ……ということは『無=ゼロ』という考えとは一致しない。
彼がいなくなって(まだ現実を私は完全に受け入れられずにいる)『無=ゼロ』ということにちょっと??になっている。
私は毎日、遺影や遺骨に話しかけている。いくら話しかけても答えは返ってこない。
「私の声は聞こえているでしょ? でもあなた(実際には、私は『あなた』なんて呼びかけは、恥ずかしくてしたことはない)の声は、私には聞こえないの。私の声が届いているのなら、何か合図をしてくれるとうれしいんだけど」なんて話しかけている。
それでたぶん風かなにかでトン!とかビシン!と音がしたら、彼からの返事だと思うことにしている(アホか!と言われたって平気だもん!)。
それは『無=ゼロ』と思っていることと辻褄が合わない。私の心の弱さなんだろうな。
『形』ではなく、私の心の中に彼の心や精神が生きていて、決して『無=ゼロ』になるのではないのかなァ。夫のからだはなくなってしまったけれど、私に『心と精神』を残していったのかなァ。
だって、私が話しかけた後に、時々トン!とかビシン!とか音がするんだもの。その度に、「今、そこにいるの?」なんて話しかけたりして……。
そう思わないと、私、救いがないし寂しくてたまらないんだもの。
それって無宗教の私の、『私の私による私だけの宗教』かも。だいたい宗教って、心を穏やかにするために存在するのだろうから。

夫の遺骨と私の遺骨を混ぜこぜにして……と言うと、友人たちのほぼ全員が「ギエーッ!」っとのけぞる。
「あの世に行っても、また同じ人と結婚するの?」と、若い人が聞いたら結婚そのものの夢を失くすようなことを言う。
でも「来世もまた結婚しようね」と夫に言われて、私はうっかり受けてしまったしなァ。まァ、来世というものがあるかないか、今のところ分からないから。

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