内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。
3月13日……Ⅱ
2023.3.13 Mon
あの日から5年が過ぎた。
いいトシをしてこの5年間、夫を思い出さない日は一日もない。
「いい加減にしないと、内田さんが安心してあっちの世界に行けないじゃない」と言われるけれど、今月だけで3回も夢に現れたのだから……。私のことが気になって、まだあちらに行きたくないのかもしれない。
(夫は時々、「忘れようとしても思い出せない」なんてジョークを言って、私を笑わせてくれたっけ)。
亡くなる十日ほど前、まったくの無反応状態になって、大嫌いだった病院に運ばれた。そして生前、付けないと約束していた生命維持装置で生命をつながれてから、夫の顔は苦悩に歪んでいった。
無反応状態で聞こえてないかもしれないけれど、私の自分自身への慰めかもしれないけれど、私は毎日とりとめもないことを夫に話しかけていた。世の中の動きや、他人の噂話や愚痴や告げ口など……。しかし反応はなかった。
それがある日、苦悩に歪んでいる夫の口が動いたような気がして、「ん?」と夫の口近くに顔を寄せた。夫は必死に口を動かして「ア・イ・シ・テ・ル」と絞り出すように、ひとことひとこと確かに言った。もちろん私は泣いた(これが泣かずにいられるか!)。
無反応であっても心臓が動いているかぎり意識はあるのだと思った。著書『遺骨』で、浅見家の人たちもそう言っていたではないか。無反応になっても、まわりのことをちゃんと理解しているのだと。
その後、夫が倒れてからずっと夫と私に寄り添って、私たち夫婦のためにヘルパーの資格まで取ってくれていたCさんに、もう声にはならなかったけれど、口びるで必死に「あ・り・が・と・う」と言ってくれたと、彼女は泣いていた(これが泣かずにいられるか?)。
生命の終わりが近づいていることが自分には分かっていて、感謝の気持ちを伝えたかったに違いない(感謝!……かァ、いい言葉だ)。
何日かして装置を外した。そして「お家(施設の部屋)に帰るのよ」と知らせたとき、夫は「ふふふ……」と笑い、私の目の前で苦悩の表情がすうッと穏やかな微笑みに変わった。肌の色艶まで取り戻していた。やはり維持装置を外して欲しかったのだ。
夫の微笑みに私は『奇跡』というものが現実にあるのだと感動した。そして翌朝、夫は微笑みながら旅立った。
生命の灯が消える瞬間って、どんななのだろう。
心臓の動きと脳の働きが停止する瞬間に、自分で「アッ! 終わる!」と思うのだろうか。
思えば私たちが生活を共にした50年余り、仕事や暮らしむきのことなど、何から何までずっと二人三脚でやって来た。介護もたぶん私の出来ることはすべてやったと思う。夫が笑顔で旅立ったあと、後悔も自分を責めることもなく、静かな自分がいることに気がついていた。ただ胸が痛かった。夫のいない毎日に、しばらくは何をどうすればいいのか分からなかった。
しかしあの日から5年が過ぎていることに気がついて驚いた。私が立ち止まっているうちに、時間は流れていたのだった。
無反応になる前に夫が「イギリスで待っているからね」と言っていた。だから私……、私がイギリスに行く日まで、夫の作品と読者のみなさんを大切にすることは勿論だけど、限りなく長くなっていく過去を振り返りながら、限りなく短くなっていくこれからの自分の時間をどう生きればいいのか、少し考えてみることにした。
……ということで、7年間書き続けてきたこのブログは、しばらくお休みします。でも私のことだ、ちょっと立ち止まったときに『つれづれなるままに、日くらしパソコンに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく……』書くのだろうなと思う。
それにしても……、愚にもつかないことを7年もの間、介護のあいだも休みなくクダクダとよく書いたものだと、自分で呆れ返っています。
長いことこのブログ(エッセイ?)をお読み下さっていた方々、ありがとうございました。いずれその時が来るまで、一応筆を置く……ではない、パソコンを閉じます。