内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。
来年からは……
2024.12.13 Fri
時間の経つ速度が年々速まるのは何故?
今年も『何をした』というほどのことは何もしてないのに、アレッ?と気づいたらもう一年が終わるのだ。
この一年もそうだったけれど、来し方を振り返ると、私の人生って何をやっても中途半端だったなとちょっと切ない。
コピーライターのつもりで入った広告代理店だったけれど、配属されたのは総務部で、役員室のお茶くみや受付や営業部の事務だった。
まだ男女雇用機会均等法のない時代で、いくらやる気があっても女性は補助的な仕事しかなかった……といっても、会社に女性のコピーライターはいた。広告代理店だから、要するにスポンサーの紹介で入社すればよかったのだった。それはもしかしたら、私の僻みかもしれないけれど。
男性というだけで肩書きがついていく若い男性社員を横目でみながら「私だって仕事がしたいのに」と鬱々としていた(鬱々としていたけれど、ワンフロア7~80人いたかな?の向こうの方にいる先輩男性と目が合って、笑いながら投げてきたキスを右手でキャッチし、そのキスをゴミ箱に捨てるくらいの洒落心は持っていた。ウケて大笑いをされた)。
24~5歳。生活があるから会社を辞めるわけにはいかない。それで私は会社に籍を置きながら、これからの自分の夢を実現させるべく人生設計を描き始めていた。中学生のころからの夢は、雑誌の編集者や作家、作詞家等々だった。
デスクの前に座っているだけでは、棚からぼた餅は落ちてこない。だから簡単に落ちてくるわけではないぼた餅をあちこちとたぐりながら、森進一や橋幸夫、三沢あけみなどのソノシート付きの小冊子に『詩』を書くチャンスをつかんだ。ボチボチとアルバイトをしながら、たぶん私は結婚には一生縁がないだろうと、優雅な老後を送るために、外食も遊びもしないで貯金を始めた(その貯めたお金が、後に夫の『死者の木霊』の自費出版に役立ったとは……)。
あるとき制作部から『詩』の依頼がきた。広告主から次の雑誌のコピーは『詩』でと注文されたけど、詩が書ける人がいないからと、私に依頼がまわってきた。勤務時間外の仕事として受け、本名ではまずいからと『早坂真紀』というペンネームの誕生だ。原稿料はもらった(その原稿料も老後のために貯金した。私が制作部に所属していれば、原稿料を支払わずに済んだのにサ!)。
その後ひょんなことで夫になる人に出会い、共同で広告制作会社を立ち上げることになって会社は辞めた。
零細企業だから地方の広告代理店に一人で出張してCF(コマーシャルフィルム)の仕事を取り、私がCS(コマーシャルソング)の担当で夫が総括(記録を調べたら作詞の数は50作品を超えていた)。そのうちのひとつが地方のCSの『地域奨励賞』にはなったが、もちろん地方の作品だから、これといった話題にはならなかった。でも楽しかった。
そして何枚か歌謡曲のレコード(パープルシャドウズや山田太郎など)も出したけれどヒットには至らなかった。ラジオのDJの構成だってワンクールだった。
そのころ営業の名刺代わりにと自費出版した作品がきっかけで、夫は作家の仲間入りをした。たぶんそのおかげで私もエッセイや小説を出版するという幸運に恵まれたけれど、『軽井沢でキャリーと』以外は初版で終わり。
私の能力はその程度のものだったのだけど、振り返ると私は一生懸命夢を追いかけ、一生懸命働き、一生懸命生きてきたのだなァ!よく頑張ったなァと、今さらながら胸キュンだ。
改めて思うと、ヒットメーカーの作詞家たちやベストセラー作家たちの才能は、やはり私とは能力のレベルが違う。ただ……、何をやっても大成しなかった私だけれど、ひたすら夢を追いかけて一生懸命働き、普通だったら経験できないことを経験した私の人生は、人間関係に傷ついたこともあったけれど、案外しあわせだったのだなと思う。
そんな私もいまや女性の平均寿命に近づいていた。私に遺された時間もそのうち確実に終わりを迎える。
他人は私のことを当分死にそうにないと笑うけれど、私に遺された長くはない時間。夫を見送ったことだし、もう一生懸命生きるのはやめて、これからは穏やかに過ごそうと決心した。でも、夫の残した作品の数々にこめられた『思い』や『心』は守らなくてはならないけれど。
あと半月で除夜の鐘が鳴る。そして来年こそ……、来年からは自分の年齢にふさわしい、自分のための心静かで穏やかな時間を送ろう。
ずっと頑張ってきたんだもの!