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内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。

風景

2024.9.13 Fri

軽井沢の我が家から記念館に行く途中と、スーパーマーケット・ツルヤに行くそれぞれの途中に、しなの鉄道の踏切がある。
私の生活行動時間では、電車はたぶん1時間に一本の割合の数で上り下りするから、30分~1時間毎に一回踏切の遮断機が下りる計算だ。
カンカンカンと鳴って目の前の遮断機が下り、しばらくすると二両か三両編成のおもちゃのような電車が通過する。急いでいる時に遮断機が下りると「チェッ!」だけど、通り過ぎる電車を待つのも、まァ風情がある。
中学生のとき我が家は埼玉県に住んでいた。通学路の途中に踏み切りがあった。あの頃は電車ではなく、ゴトンコーゴトンコーと、石炭を焚く煙をモクモクとを吐き出しながら走る、勇ましくも懐かしい蒸気機関車だった。
車社会にはほど遠い時代だったから交通手段はほとんどバスか列車だ。荷物を運ぶのは貨物列車で、列車の通過を遮断機が上がるのを待ちながら貨車の数をかぞえると、大抵50輛あった。通過の待ち時間はどのくらいだったのだろう。
そんな50輛もの長い列車の上りと下りが重なると、なかなか開かない踏切。
そして煙をはきながら遠くを行く、夜汽車の黄色い窓灯り……。それは谷内六郎の絵の世界だ。
列車で旅していてトンネルに入ると、いままで頬杖をついて流れる風景を見ていた窓を慌てて閉めるのだ。何故って、石炭を燃やしたとき匂いと煤が窓から入ってくるから。あの匂いは思い出としては懐かしいのだけど、煤が目に入ったときの痛さったらない。
ロマンだなァ! 今はもう、窓が開く列車なんてないのだろうなァ。
あのころはJRではなく国鉄だった。国有鉄道の職員の態度はおよそロマンとは縁遠かった。そして、しょっちゅうストライキがあったっけ。
私の短大時代に出会ったある日の新宿駅のホームの駅員さんは、制服のボタンは止めずに前ははだけたままで、帽子は浅く斜めかぶり。改札口の場所を聞くと、丸めたままの旗で「あっち!」と無言で方向を指していた。何だか列車に乗せてやっているのだ……という態度だった。
いまでは宅配便が普通だけど、あの頃はチッキというのがあった。買った乗車券を見せて手続きをすると最寄りの駅から自宅まで、手荷物を2~3日で届けてくれる制度だ。もちろん料金は発生していたが、チッキは割安だったと思う。
幡ヶ谷に住んでいたころ、そのチッキが一週間経っても届かないので、渋谷駅に確かめに行った。私の荷物は倉庫の隅に忘れられていた。
「アンタねえ、チッキだから早く届くってワケじゃないんだよ」と、アンタ呼ばわりされた2~3日後に、荷物は届けられた。
国鉄がJRになったのは、私たちが軽井沢に移ってからだ。JRになってからの駅員さんのマナーは、あの時代を知っている者からすると信じられないほど紳士だ。
貨物列車がなくなり(まだある?)機関車の石炭の煙もなくなった。そして列車のかたちはスマートになり、『夜汽車』なんて称ばなくなった。思い出すと、あの煙の匂いも堅いシートも列車の揺れも、全てが懐かしい風景だ。
思い出……って、あの態度の悪い駅員さんさえ、何だか懐かしく思えるのは何故だろう。