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内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。

老い

2023.8.13 Sun

夫が逝く前に「イギリスで待っているからね」と私に言った。
それは以前から私が「私の前世はイギリスの男爵令嬢だった」と吹いていたからだ。そして夫の前世は江戸町民だったと本人に伝えていたはずなのに、いつの間にイギリス人になったのだろう?
しかし夫が待っているというイギリスに行ったとき、私と夫の年齢差はどうなっているのだろうか。それぞれの生命の終わったときの年齢の姿で会うのだろうか。
出会いのころの年齢だったら、やり直したいページをなかったことにできるのだけど。年齢のこと、いままで誰もその疑問に気づいてないことに気がついた。
夫が亡くなって五年以上も経ったいまの私に、誰もが「当分死にそうにない」と笑う。下手するとあと20年は生きるんじゃない?……って。「それは私が憎まれているから世にはばかるってこと?」と言い返すが、私が健康そのものに見えるかららしい。しかし悔しいけど、自分でも健康だなァ!と思う。
でもそれだとイギリスで出会うとき、私が夫よりうんと年上になってしまわない? そんなの嫌だ。
当分死にそうにない……と言われている私だけど、やはり年齢相応にトシは重ねているらしく、先日、何故かマンションの裏の出入り口で転んだ。
普通は転ぶときは、アッ転ぶ……と瞬間、膝か手をつくものだ。それなのに「痛っ!」と、モロに鼻をぶつけた痛さで転んだことに気がついたのだった。途端にマスクの中に血が溜まり始めた。
裏口受付のフロントの女性スタッフが慌てて飛び出してきて、冷たく濡らしたタオルを鼻に当ててくれた。私は痛さよりも恥ずかしさの方が大だった。
幸い吐き気がなかったので脳は大丈夫だと思ったが、身体を受け止めた鼻がシラノ・ド・ベルジュラックほどではないものの、みるみる鼻の付け根が腫れてきて、眉間から頬にかけての内出血。まったくもってなんたるザマだ。
しかし心細かった。不安と心細さのあまり、やはり泣いた。友人が駆けつけてくれて、いまは何ともなくとも夜中に異変があるといけないと泊まり込んでくれた。こんな時の人の情けは、ほんとうに心に染みる。
鼻でショックを受け止めたとはいうものの、やはり受け身のように全身でショックをうけていたらしい。翌日は全身が軽い筋肉痛だった(筋肉痛がすぐ翌日に出た……ということは、やはり私の身体は若い?)。
そして吐き気はなかったけれど、脳だってそうとうショックを受けたはずだ。ま!いいかとそのままにしていたが、やはり不安なので人間ドックでチェックすることにした。
MRIのオプションで調べてもらったが何事もなくて、可愛くないなァとちょっとショック。ナヨナヨとしていた方が女っぽいと、むかしから相場が決まっている……って、これは男が決めたことに違いない。
「悪いところと言えば、顔と頭と口と性格かな? でもこれは生まれつきだから……」と友人たちに言ったら、誰も否定をしなかった。
コレステロールは標準値オーバーで、筋肉の量は標準値以下だって。体重も標準値より1キロオーバーだと言われた。
そうかなァ! 私は自分では脂肪は少なめだと思っていたし、体重だって1キロオーバーって許容の範囲内じゃない? そして自分で言うのもナンだけど、年齢のわりには身体は柔らかいし、筋肉だってかなりのものだと思っていた。それなのに……。どうすればいい?
それで標準値って一体何だろうと思った。
大の病院嫌いだった夫が、常日頃「病院に行くと病気になる」と言っていた。案外当たっているかも!
いまさら悪いところが見つかったところで、どっちにしても残り少ない生命。心穏やかに余生をおくるために、もう人間ドックに入るのはやめようと思った。それより、転ばないようにしなくっちゃ。若く見られても『老い』は確実に来ているのだから。
自分では言った覚えはないのだけど、私が作家『内田康夫』の妻だということはとっくの昔にバレていた。フロントのスタッフに夫の作品のファンがいたのだ。それでお詫びとお礼を兼ねて、『浅見光彦』のタオルをフロントに届けた。「今度転んだときこれを使って下さい」と言うと、スタッフに大笑いされた。