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内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。

遺譜

2020.8.26 Wed

内田作品を読んだ後はいつも「この作家は天才に違いない」と思っていた。
自分の夫を褒めるもんじゃない……と、またお叱りを受けるかもしれないけれど、天才は天才だから。
『遺譜』を読み終わった。
舞台がドイツだから、ちょっととっつき難く、ドイツ人の名前を覚えるのが大変だったけど、スケールの大きい、単なるミステリーではなかった。第二次大戦前と後のことなど、どこからフィクションでどこからノンフィクションか、ミステリーだった。
この作家の頭の中はどうなっているのだろうと思った。
しかし著者のあとがきを読んで、心が痛くなり目が大量の汗をかいてしまった。
2014年。私たちの最後になったワールドクルーズに出かけた年。
横浜出航が3月で『遺譜』の脱稿が2月……ということは、夫は旅支度が出来るわけがない。言ってみれば、原稿を書き上げて、列車ならぬ船に飛び乗ったってことだ。
外国の港に着いてツアーを楽しんでいるとき以外、船の中ではひたすら作品の校正に励んでいた。だから私は旅支度も一人、船内生活も一人ぽっちだということだ。(それでも見知らぬ国の文化に触れ、フィリピンクルーとのおしゃべりは 楽しかったけれど)。
2019年発行夏号の会報『木霊』に書いたが、本の見返し用の紙4000枚にサインしたのも、このクルーズのことだ。そして帰国が7月で『遺譜』刊行が7月。
ひところは年に12作品も出版して『月刊内田』と言われ、神が降りてきたのではないかと思うほど作品を産んでいた。しかしいくら神っていても年齢には勝てない。
少しずつエネルギーが落ちて来て、産みの苦しみを味わい始めていた。そして言ってみれば、産後の肥立ちが悪くなり始めた?
7月に帰国して11月、忘れもしない私の誕生日の前日、感覚障害というからだの痛みに苦しみ、下半身がしびれるという病気で倒れた。しかし身もだえしながらも『孤道』執筆にとりかかった。入院しながらの壮絶な執筆だったけど、結局は途中で力尽きた。翌年に脳梗塞で倒れ、『孤道』を休筆せざるを得なかったのだ。本当の意味で文字通り『遺譜』が最後の作品になってしまった。
そのことを友人とおしゃべりしていると、友人曰く。
「内田先生は、神さまが先生のからだを借りて降りてきたのです。そして、もう頑張らなくていいと、天に連れていってしまったのです。先生は人間のからだを借りた神さまだったのです。作品の質や、先生の最期のときのあの穏やかな笑顔が証拠です」。
友人は真面目な顔をしていたが、私は笑わなかった。『遺譜』のあとがきを読んだ時のように、目が汗ばんでいた。
でも! はーい!(手を上げる)、私は光彦さんの結婚反対派です。結婚だなんて、光彦さんの生々しい現実は嫌だ!
結婚したら子どもができ、雪江さんはお亡くなりになり、陽一郎さんは定年を迎える。そんなの嫌だ。フィクションなんだから、光彦さんは33歳のままでいい……なんて、ムキにならなくたっていいじゃん!

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