内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。
情景
2020.12.12 Sat
ずいぶんたくさんの内田作品を読み直して、その度に初めて読むような新鮮さを感じている。一度読んでいるはずなのに、初めて見るような四字熟語、心情表現や美しい情景描写に、私だけかもしれないけれど「うーん! 真似できない」と感動さえしている。緊迫したシーンに何気ない描写があったりして、殺伐とした雰囲気をやわらげてくれる。
作品の中でその場所の描写を読んだとき、行ったこともない場所の風景が目に浮かんでくる。
相手が立っているのも辛そうにみえたときに「大イチョウの落とす影のような冷気がスーッと降りてきた」り、「桜の葉が優しい雰囲気を醸し出す境内に上がると、正面に」その建物が現れたり……。
この作家の文章表現は、ミステリーなのに純文学と言ってもいいといつも思う。夫が小説を書くようになるまで、私は生意気にも純文学派だった。それはあるミステリー小説を読んでからだ。その作品で拒絶反応を起して、それからミステリーと言うジャンルの作品は一切読まなくなった。
それなのにこの作家の作品をすべて読破したのは、それが夫の作品だからという以外に、文章が純文学っぽいせいだ。何を以て純文学と称するのかわからないけど、たしかに純文学の多くは文章が美しい。
二十歳のころ、石原慎太郎の『海の地図』という作品を読んだとき、海の地図は『海図』だろうと思った。でも『海の地図』のほうが文学チックだと、そのころの私は「素敵!」と思った。
ストーリーは全く覚えてない。カケラも覚えてない。それなのに『男は遠い目をしていた』というくだりだけは、しっかり覚えている。
そしてたぶん、『あらゆる望郷の乾きを癒やすような、そんな目……』だったと続いていた……かな?
その文章だけでその情景が目に浮かんできて、二十歳の女の子は「素敵!」。
そのむかし私は歌謡曲の作詞家を目指していた。もちろん才能の問題もあったけれど、その他諸々でやめた。
あの時……、しあわせでたまらない女の子の気持ちを「あふれる陽射しを両手で抱いて」と書いたことがあった。そのときレコード会社のディレクターに「陽射しは浴びるもので、抱くものではない」と言われたことがある。
もちろんレコード化はボツで、作詞家の夢は捨てた(理由はそれだけではなく、他にいろいろだったけれど、3枚レコード化されたから良しとした)。
目指したものは途切れたけれど、人生って正に「霧の中を歩いていた。手探りで歩いているうちに、1本の道に出る」のだ。その道は人間の数だけあるのだと思った。
なんだか筋の通らない話になってしまった、ゴメン!