内田康夫夫人であり、作家・エッセイストでもある早坂真紀の随想を不定期でお届け致します。
ビンボー
2022.12.15 Thu
短大時代、吉祥寺に住んでいた私はとてもビンボーだったし、友だちもいなかった。それで休みの日に一人で出かける先は、井の頭公園か吉祥寺にあった名画座という映画館だった。
その頃の名画座は、名前の通り古くいい外国映画ばかりを2本立て3本立ての、入れ替えなしで50円くらいだったと思う。
記憶だと50円というのは、吉祥寺・新橋間の電車賃だったかな? いや、往復の電車賃だったかな?(あのころ東京の地下鉄は銀座線と丸ノ内線しかなく、25円均一だった。だから改札口を入るときは駅員さんがいて、出るときはチケットはくず入れに捨てていた)。
なぜ吉祥寺・新橋かというと、従兄妹が新橋にいたからで、時々食事が目当てで遊びに行っていたから。
安い入場料で、演目によっては6時間近く堅い椅子に座っていたこともあった。
私のブログで時々映画の話が出てくるけれど、それはあのころビンボーだったおかげだし、ワールドクルーズで立ち寄った国々や、外国の旅番組をテレビで見て「アッ、あの風景、見たことある」だの、あの映画のシーンの町を私はいま歩いていると感動できるのも、神宮外苑のイチョウ並木を歩いて『第三の男』のシーンを思い出したり、ロシアのウクライナ侵攻に『渚にて』を連想したり、『サウンドオブミュージック』を見て、あれッ?この映画はドイツ映画の『菩提樹』ジャン!……なんて気がつくのも、ビンボーだったおかげだ。
そういえば、短大卒の女の子の東京暮らしもビンボーだったな。それでも歌舞伎に凝って、月に一度の贅沢は歌舞伎座の三階席で、コッペパンと牛乳で演目を楽しんでいたっけ。11代目団十郎の、光源氏が花道を歩く姿の、何と美しかったこと……。
あのころは旅行をしたり遊んでいる人たちを羨んだこともあったが、人生を折り返し始めたころから、ビンボーだったから思い出がたくさんあるのだと思うようになった。先人たちの「若い頃のビンボーは買ってでもしろ」というのはこのことだなと思う。
ビンボーだったころを懐かしむなんて、私もトシをとったものだ。